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放浪館管理人

【志塾】シマの研究者になろう!

更新日:7月17日

9月17日に「シマの研究者になろう」のワークショップが奄美市名瀬にある奄美博物館で行われました。


奄美群島は今年日本復帰70周年を迎えます。


放浪館のあるここ奄美大島は戦後1945年(昭和20年)から8年間アメリカ軍政下に置かれた時代がありました。


1951(昭和26年)年サンフランシスコ講和条約によって、日本が主権を回復してからも

沖縄・奄美諸島・小笠原諸島は引き続きアメリカの管理下に置かれることになりました。

北方4島はサンフランシスコ講和条約に署名しなかったソ連が占領したままとなりました。


本土との物流が途絶えた奄美大島は困窮しました。

米軍からの配給だけでは生活ができず、密航し物資を手に入れることも行われていました。


当時、苦学して本土で要職についていた奄美群島出身者たちは

なんとか故郷が日本に戻ることができないかと考え、

非暴力・不服従をモットーにさまざまな運動を行っていました。


その一つが署名集めや新聞への投稿です。大人も子供もそれは必死の運動でした。

ある日、名瀬小学校の子供たちが書いた奄美群島を日本へ返してほしいという作文が、

全国紙の新聞に掲載されました。


それを読んだ東京都北区立滝野川第5小学校の生徒、町島洋子さんが、

自身の通う小学校へ復帰運動への署名を呼び掛けてくれました。

なぜ、見ず知らずの彼女が遠い奄美群島の事をそこまで思ってくれたのでしょうか。

それは町島洋子さんがサンフランシスコ講和条約で日本が統治権を失った樺太の出身だったからでした。


今回のワークショップはこの町島洋子さんのお話をきっかけに始まりました。


【まずは元気出していこう】


今日は座学も多いので、その前に元気を出そう!ということで、歌を歌いました。

「奄美体育の歌」です。

この歌は本土復帰運動の一環として「奄美体育連盟」が 「奄美体育の歌」を公募し、

応募作品の中から佐伯植美氏(大高一部教諭)の歌詞と折田泉氏(大高教諭 沖永良部島出身)による曲が採用され、1951(昭和26年)「奄美体育の歌」として発表されました。


今でも奄美の小学校では歌われているのですが

子どもたちもこんなに古くから歌われているとは知らないようでした。


【久伸博先生】


久 伸博先生は元奄美博物館長であり、復帰の事だけではなく奄美の歴史にはとても詳しい先生です。早速、奄美群島が日本へ復帰するまでのお話を伺いましょう。

先生はなぜ戦争が始まったのか、から話してくださいました。

「日本が先に仕掛けた!」と手を挙げて言ってくれる子も。


でもね、それにも理由があるんだよ、と教えてくださいます。

どちらの国も譲れない事があって話し合いができなくなった時に戦争がはじまります。

そうして、名瀬の街も空襲で焼かれて、広島と長崎にも原子爆弾が落とされて

多くの人が亡くなってやっと戦争は終わりました。


終戦当時の名瀬の街の写真には、小高い山の上の方まで畑にして食料を作っていたことが分かりました。


とても難しいお話ですが、みんな集中してよく聞いています。

質問もたくさん出ていました。

約40分ほどの講義で一生懸命メモを取っていました。


ちょこっと休憩です。


【研究ミッション】


講義のなかで出てきたキーワードを、6班に分かれて博物館内の資料を調べて掘り下げていきます。


#99.8% # B円 # パスポート # 奄美復帰の父 # 国境 # 2月14日


さて、ミッション開始!


奄美博物館の2階に行くと先ほど聞いたお話の中にあった、署名簿や国旗などがあって実感がわいてきますね。展示資料からいろんなメモを取っています。


それでもわからないことは久先生に聞いてみよう!


【研究発表】


それぞれ、まとめたものを発表してもらいます。


#99.8%

奄美群島で集めた署名の人口における割合。

ほとんどの人が参加した。

# B円

軍政下では通常の通貨を使用できなかったため

米軍が発行した軍票と呼ばれる臨時通貨を使用した。

これを通称B円と呼んでいた。


# パスポート

戦後8年間、日本でも米国でもない宙ぶらりんな状態に置かれた奄美群島。

奄美群島を出る時と入る時それぞれ別のパスポートが必要だった。


# 奄美復帰の父

徳之島出身の教師であり詩人の泉芳朗。

高千穂神社で断食祈願を行うなど、象徴的な人物だった。


# 国境

戦勝国が緯度線によって少しずつ国境を変化させていた。

北緯30°、29°、27.5°、27°・・・年によって国境が変わっていた。


# 2月14日

バレンタインデーではなく・・・奄美大島日本復帰協議会が結成(議長:泉芳朗)された日。日本復帰請願署名運動が始まった。


【復帰当時の食を知ろう】

研究発表を終えた志塾生たちは、博物館から今度は名瀬の街の繁華街

屋仁川通りにあるライブハウスASIVIさん(2階はあまみエフエム)にやってきました。

こちらで昼食です!


今日のお昼ごはんは、いつもお世話になっている

泉和子先生にナリ粥をご用意して頂きました。

ナリ粥のナリとは、ソテツの実の事です。

ナリには毒性があり、無毒化して食べるためにはすごい労力と時間がかかります。

戦後に限らず、お米やイモが無くなった時に島の人はソテツの実を粉にしてお粥にして食べていました。シマのいのちの恩人です。


”やんきちしきばん”の話を久先生が教えてくださいました。

やん=天井、きち=梁、しきばん=水粥


お椀によそったお粥に天井の梁が写るくらい水っぽい粥。

それほど食べるものが無かった。


そしてナリを食べつくした後はとうとう、

ソテツの幹の芯まで食べた(芯粥)という話も聞きます。


今日はそんな島の先輩たちが食べたナリ粥を頂きます。


ではみんなで頂きます!! どう?どう?


味は全然クセがなく、美味しくて天井が写らないほどお米も入っています。

そして和子先生が、粥だけでは食べにくいでしょう?

ということで魚味噌(イュミソ)も用意してくださってこれが最高に美味しかったです。


パクパクモリモリおかわりする子供たち。何人かは、、食べられない・・という子も。

それぞれでしたが、食べる事のありがたさは全員身に染みて感じたようでした。


ご飯は終わったところで午後の部スタートです。



ここからは、地元のコミュニティFM局あまみエフエムさんにご協力いただき

班に分かれて以下3点のことについてラジオで発表することになりました。


・午前中の研究成果

・復帰当時の名瀬小学校生の作文

・町島洋子さんへのお礼のお手紙


洋子さんへお手紙を一生懸命書いています。何を書いたらいい?と悩んでいる子も。


もし、日本に戻らなかったらどうなってた?

奄美大島に住んでなかったかもしれない。

貧しいままだったかもしれない。


いろんな意見が出てきました。


そして、出来上がったチームからどんどんラジオ収録に向かいます。


名物パーソナリティ陽子ねえがみんなにインタビューしてくださいます。

上手に話せたかな??


【ラジオ音源】

チーム#奄美復帰の父

岩崎透、山口央聖


チーム#99.8%

碇山玄、南絆奈、法島竜


チーム#パスポート

宮田卓、二瓶空朗、山下朋輝


チーム#2月14日

金井蒼二朗、岩崎碧、原美波


チーム#B円

宮下千樂、嘉川太陽、米田花


チーム#国境

重樹凛、内野灯、中村優里


【後日談】

志塾の皆が書いた町島洋子さんへのお礼の手紙は後日、優子先生が

東京都北区立滝野川第5小学校の副校長先生に送りました。


副校長先生は、優子先生からこのお話を聞いたときに

古い卒業生名簿から町島洋子さんが在籍していたことを確認してくださいました。

今年82~3才になる洋子さんと直接連絡を取ることは出来ませんでしたが、副校長先生は洋子さんの行方をたくさんの人に尋ねてくださったそうです。


全国紙に復帰を願い作文を書いたシマの子どもたちについては

復帰運動を詳しく調べている名瀬在住の花井恒三さんが

大島高校と大島実業高校(奄美高校の前身)の卒業名簿から

存命の方を探し出してくださいました。


そのお一人、東京在住の東広子(旧姓)さんと優子先生は電話でお話しすることができました! 70年前のいろんな方の思いがつながって今日があるんだなと改めて感じることができました。


今はまだギリギリ、復帰当時を知っている方とお話ができる段階です。

今年は記念の年ではありますが、決してお祝いだけではなく、いろんな方のお話を心に刻んでおきたいと思いました。

志塾生たちも今日一日いろんなことを知ったり考えたりしないといけなかったので

情報で頭がパンパンになっていると思います。


数年後、何十年か後、少しでも今日の事を覚えていてくれたら嬉しいなと思いまいした。


久伸博先生、奄美博物館の皆さん、泉和子先生、渡陽子さん、ASIVI&あまみエフエムの皆さん、花井恒三さん 滝野川第5小学校のみなさん ありがっさまりょうた!!


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